六十にして耳順う(みみならう)




六十にして耳順う



 十五にして学に志さず。三十にして立たず。四十にして惑う。五十にして天命を知らず。六十にして耳疑う。自分の人生を振り返るとそうなってしまう。孔子とは正反対。

 若い頃、「三十になると友人ができにくくなる」と言う人がいた。それはなかろうと思った。実際、三十代や四十代で新たな友人関係が広がった。僕にとって人間関係の最も活発な時期だった。

 さすがに五十代六十代ともなれば、若い頃のように人間関係がどんどん広がる、というわけにいかなくなる。それだけに今ある関係は大切になってくる。ちなみに現在、62です。

 コミュニケーション能力には自信がない。たくさんの人と関わりを持ってそれなりに学習はした。それでも想定外は常に起きる。人それぞれ十人十色。過去の経験だけでは対処しきれない。

 人間関係がこわれる原因は千差万別。決まったパターンはない。問題は相手側だけじゃなく自分のほうにもある。

 こわれやすくなる要因として自己中心主義がある。自らの立場や利益しか考えなければ人が離れていくのは当然。自己チューは自分の自己チューが丸見えなのに気づかない。不思議なのは、何度離反されても改めないこと。学習しないというより、自分の自己チューを認めたくないんだと思う。仲間とうまくやっていくには、「お互いさま」の意識で助け合うことが基本と思うのだが。

 プライドが異様に高い人がいる。よく見ると、そういう人に限って劣等感が強い。劣等感というマイナスの代償としてプライドを育ててるらしい。その根拠たるものは、たいがいささいなこと。となるとプライドの高さが第三者に理解されないのは当然。

 心のクッションというべき精神的余裕のない人がいる。ツッコミを入れると真顔で怒り出す。こういう人は取り扱いに注意を要する。

 ダメな人ほど大きな顔をしたがったり、威張りたがったり、自慢したがったりする。印象落とすだけ。過大なプライドはさっさと捨てる。劣等感は、努力して克服するか、あっさり諦めるか、どっちか。

 空気が読めないのも読みすぎるのも問題。人との「間合い」が見えない人がいて、ずけずけと侵入してくる。逆に遠慮しすぎる人がいる。間合いを測れないという意味では同じ。

 上から目線も上目遣いも、立場がイーヴンじゃないという点で同じ。年齢の上下はあっても対等な立場で話したい。

 人との関係はコミュニケーションが円滑であることが肝要。コミュニケーションは双方向。人の話を聞き取り、相手の求めていることを読み取る。これは能力というより習慣の範疇に入る。そして、わかりやすく伝える。コミュニケーション能力は人生最大のテーマです。


 たいがいの人はまわりの人に嫌われたくないと思っているはず。なるべく好印象を持たれたい。そのためにはどうふるまうべきかについて、年を経れば知恵は自然に身についてくる。たいがいの人はそうなんだけど、知恵のついてこない人もいる。年をとって劣化するか、円熟するか。このあたりが分かれ目、かな。

 こうすればこういう結果を生む、という因果関係は自律的に学習するが、学習できない人がいる。そんなことしたら決定的に人間関係がこわれる、ということが読めない人にはどうすればいいか。説いて聞かせても効果は薄い。一時的に理解を示しても、ほぼ確実に過ちをくり返す。簡単にはなおらない。僕も今まで非常識をかなりやりました。これらすべて、忘れちゃいないんですけど。


ひょっこり通信 2015.10.10




「投げておしまい、という話ではありません」 ・・・コミュニケーションは双方向性のもの

「不適応? よろしやないか」 ・・・不適応者の生まれ来るところ

「コミ能+発信力で百万馬力」 ・・・発信力を左右するのはコミ能である

「人生の法則(わが家の法則?)」 ・・・船越家版マーフィーの法則

「私はどこへ行くんでしょ」 ・・・自分探しの旅

「非常識力」 ・・・非常識力こそがあなたを救う

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