古いやつだとお思いでしょうが…




古いやつだとお思いでしょうが…



 自分の原稿を自分で校正する。人の原稿にもチェックを入れる。校正することが日常になってるせいなのか、言葉や文字が正しく使われてるかどうか、ナーヴァスになる。

 実にくだらないことですが、「現地時間」というごく普通の日本語に対しても違和感を覚える。いや、それは違うだろ。「現地時刻」だろ、などと。これって神経症?

 ネット記事を読むと文章の雑さが気になる。書いたあと、一度も目を通さずに発信してるだろう、と思えるものがある。

 ネット発信はスピードが大事。細かな文法ミスなどは二の次。そのことを頭ではわかってるけど、引っかかる。
 こだわりすぎだが、「統一表記」というものを持っている。「できばえ」なら「出来映え」と表記し、「出来栄え」は使わない、とか。一覧表にし、ばらつきを避けるため、それを基準にする。

 百%統一するわけじゃない。意味合いを見て、ここは漢字、ここは仮名と使い分ける。

 たいていは平仮名です。「たいてい」も「大抵」を使わない。漢字はそれぞれ意味を持ち、自己主張しがち。使いまくると字面は重くなるし、意味的にも重たく感じられる。

 僕が使ってるマックの日本語ソフトは、何度再変換しても次にまた同じ単語が第一候補に出てくる。「繰り返す」を「くり返す」に毎度毎度再変換する。「記憶力ないのか!」と怒鳴りますが、言っても聞いてくれません。困ったやつ。


 日本語ソフトで変換された単語をそのまま使うと、漢字が多くなりがち。「しかたない」を「仕方無い」と書かれると、そこんところは全部ひらがなでいいんじゃないの、と思ってしまう。

 意味するところからは語感の遠い漢字が混入する場合がある。「有難う」「流石(さすが)」「戦ぐ(そよぐ)」「五月蝿い(うるさい)」。読者は文字を視覚情報としても捉える。意味の遠い文字が混じると、漢字に引きずられる。


 日本語は日々変化しているが、国語辞典はその変化から距離を置きたがる。人が日常的に使う日本語とは別の体系を死守していると感じられることがある。

 典型的な例として「十」の読みがある。「十回」や「十発」「十手」などでの読みは「じっ」だけど、誰もそうは読まない。僕も発音するとき、「じっ」と「じゅっ」の中間的な発音をしてしまう。でないと人に意味が通じにくくなるから。

 他に「王道」の用法(読みではなく)など、いくらでもあると思う。国語辞典は世間から置いてきぼりを食らっている。パソコンの日本語ソフトはその点、ユーザーの変化に対応していて、間違った読みであっても変換してくれる。それもまたどうかと思いはするが。

 僕は国語辞典派なので、世の流れからは置いてきぼりなのかなあと思ったり。でも、直しようがないんです。せいぜい、口に出して「間違ってるで」とツッコミ入れないよう、自重する、ぐらいかな。

ひょっこり通信 2019.2.17





「ない」を撲滅する ・・・ネガティヴ追放!

ささいなるこだわりもまた ・・・ちまちました言葉のこだわりについて

極楽page 船越聡君のサイトのトップページです

ひょっこり通信のページ

当ページhttps://funakoshiya.net/hyokkori/furuiyatsui.htm