ゴミだゴミだゴミだ「持ち物を圧縮せよ」という声が常に聞こえる。幻聴ではありません。心の中からの声。 物が多いと探し物に時間がかかるということは誰しも経験したことあるでしょう。減らせばいい。そうはいっても圧縮していくのにも時間がかかり、エネルギーを消耗する。一つひとつ吟味してたらなかなか進まない。思い切りがよすぎると、あとで「しまった」と思うが、なくなって本当に困るというものはない。捨てたか。ま、しゃーない。 捨てるということは今後の自分の可能性も圧縮するということ。若い頃はいろんな方向性が考えられた。年をとれば狭まる。できる範囲に限度がある。自分の可能性や方向性を選り分ける行為でもある。割り切らねば。 物は存在するだけでコストとなる。持てば持つほど貧乏だ。本やCDなどのいわゆるソフト物は基本的にゼロにしたい。映像ソフトはもともと持ってない。資料は原則廃棄。自分の作品も廃棄。 若い頃からなんだけど、展覧会が終わると作品は実質ゴミなので捨てていた。ほしいという人には持っていってもらった。金を払うという人には「ありがとうさん」。で、ほとんど残ってない。こういうこと書くと「もったいない」と怒る人もいるかもしれない。だから今まで口をつぐんできた。もう時効だからばらしていいだろう。 記念品の類はほとんど持ったことがないので、置き物類がゼロ。なさすぎて殺風景です。気が向いてパソコンからプリントアウトした自分の絵などを飾ってみますが、ぱっと明るくなるとまではいかない。機能一点張りで潤いの乏しいのがわが家の欠点です。 思い出となるものを持たないのは、ノスタルジーと無縁な性格ゆえなので、誰にでもできるというもんじゃないだろう。でも、あまり過去にこだわらなくてもいいんじゃないか。大事なのは過去じゃなく現在と未来。これからでもまだまだ楽しいことがいっぱいあるんじゃないのかな。 迷うものは保留にする。捨てられないのは、必要だからという以外のなんらかの理由がある。何にこだわって捨てられないのかを考える。アート的な意匠に惹かれて捨てられない。コンプリートじゃないけどシリーズ的にかなり揃っている。 美的に気に入ってたものはほとんど捨てました。持っててなんの役に立つ。シリーズで揃ってるもの。これも捨てた。僕が捨てたらコンプリートがどこにもないという可能性あるものも、捨てた。発行者自身が完全保持してなさそうなDM的通信物だったが、記念品という以外に存在価値はない。 どんどん減っていくと、いたるところ隙間だらけになる。整理場所のリストラクチュアも考えながら処分をしなければならない。何をどこに整理すると最適か、というのはなかなかに難しい。アクティヴな部分とそうでない部分を選り分ける。アクティヴなものは手近な位置に。パソコンのフォルダ整理と似た作業になる。同時に人生のリストラクチュアも意識する。生活のダウンサイズも視野に入る。 なんでもかんでも捨てるのは、これまで築き上げてきたものを自分で殺すこと。そんな気になるかもしれない。過去の実績をなかったことにして、また一から始める気持ちを持ったらどうでしょう。思いっきりさっぱりしていいんじゃないでしょうか。人生まだまだ。これから始められるものもある。 ひょっこり通信 2015.6.14 |
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